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明治潜穴(穴尻).jpg

こごた便り

【探訪:品井沼駅~松島駅】

「品井沼」の駅名には早くから興味を惹かれている。

住居探しに初めて訪れた小牛田から、
仙台へ向かう電車の中で駅名を聞いて、
「どこに沼があるのだろう」と見回した記憶がある。

 

品井沼干拓の歴史(注1)を知るのは、
小牛田へ移住した後のこと。

 

(注1)品井沼:東西6.5km、南北3km、
 総面積2500haの巨大な沼であったが、江戸時代
(元禄期)及び、明治時代に大規模な干拓が進み、
 昭和30年代に完全に消滅している。

鹿島台の鎌田記念ホール(注2)を訪問した際に 、
品井沼干拓関連の常設展示を見学。

2023年発行された「鎌田三之助(注2)の夢」(鈴木光太郎著)
の中では品井沼干拓史に多くの頁が割かれている。

 

(注2)鎌田三之助:品井沼北岸沿いに広がる
 鹿島台村(現在は大崎市の一部)の村長を終戦まで
 10期38年勤め、明治期の品井沼干拓事業に努めた人物。
 鎌田記念ホールは、鎌田三之助村長にちなんで命名された
 鹿島台町(現大崎市)の市民会館。

 


<第1回探訪:元禄潜穴>

睦月下旬、強い寒気が近づくとの天気予報。
雪が降ってくると自転車が使えなくなる。
そう思ったら急にサイクリングに行きたくなった。

強い西風の中、ブロンプトン号に出動を命じる。

そして、JR東北本線品井沼駅に降り立つ。
この日はここが起点。
風下に向かい、松島駅から電車で戻るつもりだ。

 

品井沼駅には初めて降り立つ。
駅舎横でブロンプトン号を組立てようとして
駅前に大きな石碑のあることに気づく。

 

車窓からは気づかなかったが、駅開設の記念碑だ。
昭和32年2月建造の「千葉繁翁記念碑」。

幾多の苦労を重ねて駅設置に漕ぎつけた経緯が刻まれる。

 


この日は線路沿いの旧道を南下。

 

小姓ヶ入踏切を左手に見て通過し、しばらく行くと
品井沼干拓資料館という立派な建物。
事前予約が必要らしく、無人の館は施錠されている。
経費が掛かる職員の常駐は難しいのだろう。

 

この建物のすぐ東側に潜穴の穴口があった。
もうほとんど流れを止めてしまった元禄潜穴。
穴口の周囲が煉瓦で支えられているのは、
明治期に補強を行ったのだろうか。

 

犠牲者供養碑が立っていて、潜穴工事で
数百人の犠牲者があったことを碑文から知る。


道路は大菅踏切を横切り、線路の東側に移る。
 

やがて右手に児童公園と神社と踏切が見えてくる。

第2根廻踏切と銘打ってある。
第1踏切は見当たらないが何処だろう?
素朴な疑問がわくが、回答は見つからず。

 

公園の敷地は潜穴のずり穴だった場所との説明板あり。
韮沢阿弥陀堂は潜穴工事事故犠牲者を祀ったものか?
堂宇の左右には小さな稲荷とおまん地蔵が建つ。

おまんさんという16歳の少女が潜穴工事人に交じって
事故で命を絶たれた言い伝えが残るそうだ。

 


道を数百メートル進むと元禄潜穴(第6)ずりだし穴。
東北本線から良く見える看板が立っている場所である。
いつかは見に来ようと電車の中でいつも思っていた場所。
ようやくたどり着いた。

 

擂り鉢型の深い穴の底に水路の一部が見える。

ずりだし穴横の説明板がわかりやすい。

 

ずりだし穴から横に水路を掘り進み、
掘りだした土をずりだし穴から外へ運び出す。
いくつものずりだし穴それぞれから掘った水路を
繋げて、長い地下水路ができたわけだ。

 

穴川(品井沼~穴頭の平堀)1754メートル
元禄潜穴 2578メートル
南部平堀(穴尻~松島湾)3065メートル

 

品井沼と松島湾との水面高低差はわずか1メートル。
治水が容易でなかったことは想像に難くない。

ここで正午になる。

時報代わりの音楽が流れる。
どうやら「どんぐりころころ」のようだ(注3)。

 

松島町出身の青木存義さん作詞によるこの童謡に送られて
元禄ずりだし穴を後にした。


(注3)松島町の正午の時報は、2023年4月から、
それまでの「エーデルワイス」から「どんぐりころころ」に
変更されているそうだ。

 

 

<第2回探訪:明治潜穴>

 

桃の節句を翌日に控えた空は
晴れたり曇って小雪が舞ったりという
冬らしい寒々とした模様。

 

でも、気温はプラスに転じたことだしと、
電車に乗って再び品井沼駅に降り立つ。

 


線路沿いの細道を辿り、
「どんぐりころころ記念碑」の立つ
松島第五小学校前に立ち寄る。

 

前々月の元禄潜穴探訪の時に見逃した碑。

少し小高い場所に立つ小学校。
この学校敷地が元は「どんぐりころころ」を作詞した
青木在義さんのご自宅があった場所だとか。
学校ができるくらい広い土地に住んでいたなんてすごい。

 


そのまま道なりにまっすぐ歩いていくと
道は元禄潜穴につながる穴川を渡る。

 

やがて明治潜穴に繋がる高城川と
その向う側を走る国道346号が見えてくる。

 

ここで高城川を渡る橋が「大友橋」、
明治潜穴完成後にこの橋が架けられた時、
鎌田三之助鹿島台村長が、松島町で潜穴工事に尽力した
大友氏を記念して名付けた橋名である。

 

もちろん当時の木橋は架け替えられていて、
現在の橋は昭和48年3月竣工のものである。

 

 

高城川の川幅は、穴川の何倍もあって、
明治潜穴が元禄潜穴より格段に規模の大きいことが
一目で見て取れる。

 


大友橋手前に戻って、高城川左岸の細道を行く。
(この道は、桜の並木が続き、花のシーズンには
たいへん美しい。)

大友橋のたもとには親水公園が作られていて
高城川の水に手を浸すことができるようになっている。
が、道は上り坂が続き、川は渓谷の底に沈んでゆく。

 


煉瓦造りに仕立てた展望デッキが見えてくる。
潜穴の穴口も見えてくる。
潜穴の上に作られた明治潜穴記念公園に到着。

鎌田三之助さんの顕彰碑が立つ。

 


高城川左岸の道はここで終わって国道に合流。
ここからは国道西側の歩道を南下。

わりとすぐ下り坂になる。

 

このあたりで松島町の正午の時報「どんぐりころころ」の
音楽が防災無線のスピーカーから流れてくる。

 

「町民の森」へ向かう脇道との合流点を過ぎたらすぐに、
明治潜穴穴尻に到達した。

 

潜穴完成の折に鎌田三之助村長が舟に乗って
潜穴を潜り抜けたという話を聞いているが、
確かに小舟が通れるくらい大きなトンネルだ。

 

ここに明治潜穴復旧記念碑が立っている。

 

昭和53年6月12日の宮城県沖地震で潜穴に大被害があり、
国及び県による大復旧工事が行われたことが記されている。

復旧工事完了後に、明治潜穴は現代風に名前を付け替えられ、
正式な名称は「高城川トンネル」になったそうだ。
でも、通称/旧名の「明治潜穴」の方が通りが良いみたい。

 

 

川沿いの道をもうしばらく下る。
東北本線の線路が眼下に見えてくる。
線路はそこで高城川の左岸から右岸へ渡っている。

 

これまで歩いてきた国道346を離れ、
長い階段を下り、高城川のすぐ脇の細道に辿り着く。

 

そこで、大きな石碑が目に留まる。
「東宮殿下一分間停車記念の碑」と案内板にある。

 

この記念碑には、明治41年10月3日に当時東宮であられた
大正天皇がお召し列車をここで一分間停車され、
明治潜穴工事の完遂を鼓舞されたという歴史が刻まれている。

 

 

ここからは松島駅に直行。
約3時間の徒歩による明治潜穴探訪終了。
小雪はいつの間にか止み、昼頃の強風も収まってきた。
東北本線はその強い風の影響で20分ほど遅延していた。

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